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南伊豆アジール カフェ アート ジャンチーク 佐藤工房

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南伊豆の海や山でアジールに生きてます。好い加減なカフェとジャンクなアートで無用の逸脱に呆けてみますか。

言葉と身体は道具ではない

「単なる数列に具体的イメージが重なってくる「見当」というある意味とっても日本的な手法。
そんな意識状態をもっと重要視してもいい・・」
この部分だけ抜き出して、またしてもより分からなくなってしまった、というのはとても言いにくいのですが、何しろこれについての今までのやり取りを知っている人はともかく、はじめてよむひとにとってはどんな日本的手法で、どんな意識状態で、それを顕在化するとどんな風に見えるのか?ああ、今まで読んでこられてる人にもどうなのかな?ますますぴんと来ないのはやはり、私の見当のつけ方に問題があるのでしょうか。

なにせ遊びごころがないもので、曖昧なものは曖昧に、ハッキリできるものはハッキリと、したいなという思いもありまして、でもやはり曖昧なものはハッキリさせなくてもよいか、いや、むしろハッキリしたものも曖昧にしといた方がいいかな、というある意味とっても日本的な意識状態というのもありますね。

結局どちらでもいいような自然の流れに日本人独特の浮遊した主体性が顕在化している。
例えば、演歌であれば「津軽海峡~冬~景色~♪」なんて最後のところに恐ろしく情感的な熱唱が入ってしまう。単なる自然の景観に具体的な思いが重なってくるという、まさに日本的な手法。そんな日本人の心のひだひだの状態をもっと重要視しよう、これは単なる一つの形式的、類似的例にしか過ぎませんが、具体的に日常化するとこんな感じでしょうか、それとももっと抽象的に芸術化してみたほうがいいでしょうか。
ま、試しに、戯れに 母を背負いて ひざまずき あまりの重さに 冷や汗流る

それにしても、やはり意思疎通というのは難しいものです。
金魚すくいの金魚のようなものですね。
私は最中で、あなたは金魚、間に流れるすくいの手♪。こうすると、どどいつです。でも、どどいつに♪はないでしょうね。
それとも、まさか、日本古来のあの伝統的な・・ではないでしょうね。

となれば、もう、日本にはコミュニケーションという概念はない。しかし彼らには、それ以上のテレパシーというものを生まれつき備えられている。
昔、そんな風に日本を西洋に紹介した外国人がいたそうです。
あ、また電波がやってきた。違った、ケータイだった。
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by satokobo | 2008-12-19 00:02 | Comments(1)
Commented by Phuzy at 2008-12-19 12:35 x
名詞より形容詞、形容詞より動詞。ってのもありましたね!
まあそれは置いておきますか・・・。

「津軽海峡~冬~景色~♪」は出だしの3連符の連打が、当時の演歌に無かった新鮮さが魅力でした。その後演歌の世界でもロック系のアフタービート(8ビート)の伴奏が主流となる橋渡し的な曲でしたね。
見当とは借景などにみられる見立ての手法の事だと思います。
日本庭園の刈り込んだツツジに大海の波を見る事は、
2次関数に図形を重ねみる事と同じだと思っています。